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視点1

第 1 章 砂を噛む平穏

窓がずっと、がたがたと鳴っています。 春が来たというのに、東京の西風はちっとも優しくありません。建付けの悪い窓の隙間から、容赦なく砂埃が入り込んできて、私の机を白く汚していきます。 さっきまで何かを書きつけようとしていた真っ白な原稿用紙も、いまはざらざらとしています。指先でなぞると、砂の粒が嫌な音を立てて私の皮膚を削るようです。この部屋にいるだけで、私はこの街の塵に埋もれて、少しずつ削り取られていく。そんな気がしてなりません。

文学という、誰にも邪魔されないはずの聖域に逃げ込もうとしても、現実はすぐに追いかけてきます。 郵便受けに投げ込まれていた、一通の手紙。 送り主は、故郷にいる老いた母です。 かつては盛岡でも秀才と言われた母でした。けれど、函館や釧路と、貧しさに追われるように各地を転々とするうちに、母の書く文字はどんどん崩れ、いまではヨボヨボとした平仮名ばかりが並んでいます。

そこには、目を背けたくなるような、けれど「愛」という名で包まれた残酷な言葉が綴られていました。 屋根が雨漏りをして困っていること。娘が無理をして働いていて、体が心配なこと。そして、何度も繰り返される「一円でもよろしくそろ」という、震えるような催促。 母は私を信じているのでしょう。東京で立派にやっているはずの息子が、いつか自分たちを呼び寄せてくれると。でも、その期待の一つひとつが、いまの私には鋭い棘となって刺さります。 「返事がなければ、そちらの始末をつけて、みんなでそっちへ行きます」 そんな脅しのような一文に、私は呼吸が止まりそうになります。

私には、この家族を養う力なんてありません。一円どころか、明日の電車賃さえ怪しいのです。 母の手紙を机に置くと、また西風が吹いて、手紙の上に砂が積もりました。 愛されていることは分かっています。でも、その愛に応えられない無力な自分が、ただ情けなくて、惨めでならないのです。 どうせ私には、この重い責任を果たすアテなんてどこにもない。 いっそ、このまま砂に埋もれてしまえたら。 期待されることにも、裏切ることにも疲れてしまいました。 中途半端に希望を持つくらいなら、いっそのこと、もっと早く、もっと深く、絶望してしまいたい。そうすれば、こんなに苦しまなくて済むのに。

私は濁った頭のまま、ただ、ざらざらとした原稿用紙を見つめていました。 春の光は、私を照らすにはあまりに眩しすぎて、ひどく不快なものでした。

第 2 章 濁流の底の叫び

どたどたと、品のない足音が廊下を渡ってきます。 部屋の戸を乱暴に開けて、女中のおつねが私(わたし)の前に、お盆を放り出すように置きました。 お盆の上には、見るからに冷めきった、濁った色の味噌汁が乗っています。具のない汁の表面には、うっすらと白く脂が浮いていて、それがこの下宿の私への扱いのすべてを物語っているようでした。

おつねは何も言いません。ただ、背中越しに「まだいたのか」と言わんばかりの、ねっとりとした侮蔑の視線を突き刺してくるのです。彼女の目に映る私は、きっと、家賃も払わずに原稿用紙を汚しているだけの、得体の知れないゴミのような存在なのでしょう。 「......フン、あの畜生」 彼女が去ったあと、私は声に出さずにつぶやきました。もし、いま私の手元に有り余るほどの金があったなら。この女の顔を札束でなでてやったら、どんなに見苦しいおべっかを使ってくるだろう。そんな下品な想像をすることでしか、私は自分の剥(は)がれ落ちそうな尊厳を保つことができませんでした。

そこへ、金田一(きんだいち)がひょっこりと顔を出しました。 彼はいつものように、裏表のない、透き通った善意の塊のような笑顔を浮かべています。 「石川くん、具合はどうだい」 その優しさが、いまの私には何よりも鋭い刃となって、胸の奥を切り刻みます。彼は私を信じ、助けようとしてくれている。その無垢な心が、劣等感にまみれた私の輪郭をはっきりと浮き彫りにしてしまうのです。彼のような清潔な魂の隣にいると、自分の心の醜さが、まるで泥水のように濁って見えるのでした。

私は、彼から借りたままになっていた剃刀(かみそり)を、そっと手に取りました。 銀色の冷たい光が、暗い室内で怪しく光っています。 これさえあれば、すべてを終わりにできる。母からの「金を送れ」という無慈悲な手紙も、妹への果たせない責任も、書けない原稿への焦りも、すべてを断ち切ってしまえるはずでした。 私は着古したシャツの胸元をはだけ、その鋭い刃を、自分の心臓があるあたりに押し当てました。

――けれど、手が震えて止まらないのです。 力を込めようとしても、指先に全く力が入りません。あまりの空腹と、数日間まともに眠っていないことによる虚脱感が、私の体をすっかり泥のように変えてしまっていました。 ぐっと押し当てたつもりなのに、刃は皮膚の表面を滑るだけで、傷一つつけることができません。血の一滴さえ流せない。死ぬことさえ、私には許されていないのか。 その惨めさに、視界が急激に歪(ゆが)みました。

私は剃刀を畳に落とし、両手で顔を覆いました。 暗い底なし沼に沈んでいくような感覚。這(は)い上がろうとしても、指が泥を掴むだけで、体はどんどん深くへ沈んでいきます。 喉の奥から、乾いた叫びが漏れ出しました。

「底にいる――底だ! 予(よ)は今、人生の底にいるんだ!」

叫んだ言葉は、埃(ほこり)っぽい四畳半の壁に跳ね返り、そのまま消えていきました。 返ってくるのは、ただ冷たい風の音だけです。 私はそのまま、冷めきった味噌汁の横で、うずくまり続けました。光の届かないこの濁流の底で、私はただ、自分が削られていく音を、じっと聞いていることしかできなかったのです。

第 3 章 五銭の尊厳

畳の上に放り出したままの剃刀(かみそり)を、ぼんやりと眺めていました。 死ぬことさえ、私には許されないようです。喉を切り裂く力さえ残っていないほど、お腹が空いて、心がすり減っていました。血の一滴すら流させてくれないこの世界は、私に「もっと惨めに生きろ」と命じているのでしょう。

私はふらふらと立ち上がり、棚に残された最後の一冊を手に取りました。 私の処女詩集、『あこがれ』です。 かつての私が、なけなしの情熱を注ぎ込み、未来への希望を託して編み上げた、たった一つの誇り。それを抱えて、私は外へ出ました。 古本屋の主人は、私の魂の結晶を、まるで汚れたゴミでも扱うような手つきでめくりました。そして、カウンターに放り出されたのは、たった一枚の五銭硬貨でした。

――チャリン。

乾いた、情けない音がしました。 私の尊厳が、私のこれまでの人生が、たった五銭の金属片に変わった音です。 胸の奥が、冷たい泥で埋め尽くされていくようでした。こんなもののために、私はあんなに苦しんできたのでしょうか。五銭。それっぽっちの重みしか、私の言葉にはなかったのでしょうか。

私はその五銭で、煙草を買いました。 紫の煙を吐き出しながら、上野ステーションの近くまで歩きました。 どこか遠くへ行きたい。この閉塞(へいそく)した東京から、私を誰も知らない田舎へ逃げ出したい。そんな願いをあざ笑うように、駅の方から鋭い汽笛の音が響いてきました。

ポォォォ――。

それは、どこへも逃がさないという、冷酷な審判の合図でした。 故郷の母からは、生活の苦しさを訴える手紙が届いています。宮崎からの送金で、もうすぐ家族がこの東京へやってきます。私は、彼らを養わなければなりません。自分一人の命さえ持て余しているこの私が、家族という巨大な荷物を背負って歩き出さなければならないのです。

金田一君は、いつものように穢(けが)れなき微笑みを浮かべて、「家族が来るのはいいことだ」と言うでしょう。おつねさんは、また脂の浮いた冷たい泥水を差し出して、私の無能を笑うでしょう。 私には、もう死ぬ自由さえありません。 これから一生、私は「まともな人間」のふりをして、家族という名の地獄を引き受けて生きていくのです。剥(は)がれ落ちそうな仮面を顔に張り付けて、濁った水の中を這(は)い回るのです。

私は、肺の奥まで煙草の煙を吸い込み、独り言をこぼしました。

「死ぬまでこの問題を背負う覚悟だ。......さあ、みんな死んでくれればいいのに」

本心でした。 家族が愛おしくないわけではありません。けれど、私の首を絞めるのは、いつもその「愛」という名の責任なのです。いっそすべてが消えてなくなれば、私はこの泥の底で、もっと静かに眠れるのに。

汽笛の音が、また遠くで鳴りました。 夕闇(ゆうやみ)に包まれた街は、私を飲み込もうとしています。私は、五銭の硬貨と引き換えに手に入れた煙草を指で揉(も)み消し、重い足取りで、あの埃(ほこり)っぽい四畳半へと戻り始めました。 人生という名の、終わりのない、息苦しい旅がまた始まろうとしていました。

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