# 視点2

#### 第 1 章 一円の重み、一冊の愉悦

春の、どこかぼんやりとした日差しが窓から差し込んでいました。掃除もしていないガラス越しに見る外の世界は、薄汚れていて、けれどひどく眩しかった。私は昼過ぎまで寝床の中で、どろりと濁った血の巡りを感じながら、枕元に届いた一通の手紙を眺めていました。

それは、故郷の母からのものでした。

かつて盛岡の仙北町で、誰もが認める秀才だった母。その母が、慣れない土地を転々とし、今は東京の片隅で、震える指先を動かして書いた文字。ヨボヨボと波打つ平仮名が、紙の上で力なく踊っていました。\
「一円でもよろしくそろ」\
そう書かれた一行を見つけたとき、私は思わず鼻で笑ってしまいました。滑稽でした。雨漏りに怯え、娘を朝から晩まで働かせ、そうしてようやく捻り出した悲鳴が、たった一円の無心なのです。

私はその紙を、指先でぐしゃりと握りつぶしました。\
普通の人なら、ここで胸を痛めるのかもしれません。けれど私にとって、それはただの「重荷」でしかありませんでした。母がどれほどの絶望の中でこの文字を綴ったか、その背中がいかに丸くなっているか。そんなことは手に取るようにわかります。わかった上で、私はその絶望を放置することを選びました。\
私の沈黙が、返事のない日々が、どれほど母を、そして家族を追い詰めるか。それを想像することは、一種の快感ですらありました。私は彼らの期待を、その痩せ細った希望を、一歩も動かずに踏みにじっているのです。

「どうせ予には、この重い責任を果たすアテなんてない」\
そう自分に言い聞かせると、心は不思議なほど静かになりました。救う気がないのなら、いっそ早く絶望してしまえばいい。彼らが私を諦めるその瞬間を、私は冷ややかに待っていました。

母が飢えに震えているというのに、私の指先は別のものを求めて動いていました。\
貸本屋から届いたばかりの、好色本『花の朧夜』。\
私は、家族に食べさせるパンを買う金もないくせに、自分の知的好奇心と、低俗な欲動を満たすための時間は惜しみませんでした。その淫らな物語を、一文字ずつ丁寧に、ローマ字に直してノートに書き写していく。\
h、a、n、a、n、o、o、b、o、r、o、y、o......。\
インクが紙に吸い込まれていくたび、私は知的な背徳感に浸っていました。家族がひもじい思いをしている今、この瞬間に、私は最も無益で、最も美しい淫らな作業に没頭している。\
この冷酷さこそが、私という天才を育てるための供物なのだと、本気で信じていました。

窓の外では、女中が雨戸を繰る音がしています。\
やがて世界は戦に包まれ、人々は半分くらい死んでしまうのかもしれない。歴史が滅び、愛も思考も消え去った土の上に、いつか「新しい都」が建つのだろうか。\
けれど、そんな遠い未来のことよりも、私は今、母の涙が染みているはずの手紙を無視して、この卑俗な物語を写し終えることに、すべての生を賭けていました。\
私が彼らを殺している。その自覚だけが、春の倦怠の中で、私の意識をかろうじて繋ぎ止めていたのです。

#### 第 2 章:友情の肋骨を叩く音

金田一君は、本当にいい人でした。だからこそ、私は彼を壊さずにはいられなかったのです。

彼は私にとって、単なる友人ではありませんでした。底の見えない、いつでも引き出せる「財布」であり、私の醜い感情をすべて受け止めてくれる、都合のいい「器」でした。彼が私に向ける、あの痛ましいほどに純粋な善意。それを見るたびに、私の指先は、彼をずたずたに引き裂きたいという欲求で震えるのです。

ある日のことでした。私は彼の部屋で、横たわっている彼の胸のあたりに指を置きました。そして、トントン、とリズムを刻んでみたのです。\
「ねえ、金田一君。君の肋骨は、まるで楽器みたいだね」\
私は、彼の肋骨をピアノの鍵盤か何かのように叩き続けました。彼は困ったように笑っていましたが、その瞳の奥には怯えが混じっていました。私は確信したのです。この男の肉体も、精神も、すべて私の所有物なのだと。私が叩けば音が出る。私が揺さぶれば震える。その感触が、行き詰まった私の生の、唯一の確かな手応えでした。

小説が書けない。家族からは金の無心が届く。そんな日常の鬱屈を晴らすために、私は彼を恐怖のどん底に突き落としてやることにしました。\
私は突然、狂ったような真似を始めました。ナイフを手に取り、芝居じみた手つきで自分の喉に当てたり、あるいは彼を殺すかのような目つきで見つめたり。金田一君の顔からは血の気が引き、呼吸が浅くなっていくのが分かりました。彼が窒息しそうなほど追い詰められているのを見て、私は心の底から冷ややかな愉悦を感じていたのです。\
ついに耐えかねた彼が部屋から逃げ去る時、その背中を、私はただ黙って見送りました。私の悪意が、彼の平穏を完璧に破壊した。その事実だけが、私を満足させてくれました。

そして、私は彼からむしり取った金を持って、吉原へ向かいました。\
故郷で飢えているはずの母の顔や、私を待つ家族の姿は、霧の向こうへ押しやりました。そんなものは、今の私には一銭の価値もありません。私は、ただ、見知らぬ女の肌に沈みたかった。\
吉原の、あの重苦しいほどに柔らかい布団に身体を埋め、蘭灯の影の中で女を抱く。金田一君が血を吐くような思いで工面したはずの金が、酒と女の肌に消えていく。その「無駄」の極致こそが、私にとっての救いでした。自分を、そして周りの人間を、これ以上ないほど汚いやり方で踏みにじっている。その加害の感覚だけが、死にたがっている私の意識を、この世に繋ぎ止めていたのです。

夜更け、酔いと情欲にまみれた頭で、私は再び金田一君の前に立ちました。\
「家へ行ったら、僕を抱いて寝てくれませんか?」\
私は彼に、そう囁きました。\
「酒を飲んで泣く人の気持ちが、今夜ようやく分かったよ」\
これは、反省でも、謝罪でもありません。私は、彼を私の深淵にまで引きずり込みたかったのです。私のこの、救いようのない孤独と身勝手さを、彼に一生背負わせてやりたかった。

金田一君は、青い顔をして私を見ていました。\
私の言葉のひとつひとつが、彼の優しい心を、ゆっくりと、確実に殺していく。\
窓の外は、どんよりとした曇り空でした。私の胸の中では、昨夜の女との情事が、湿った不快な音を立てて響き続けていました。けれど、私はその音を愛していたのです。私が誰かを傷つけるたび、私という怪物は、ほんの少しだけ、生きている実感を味わうことができたのですから。

#### 第 3 章 当てはまらぬ鍵の完成

やっと手に入れた月給は、私の指の間を砂のようにこぼれ落ちていきました。手元に残ったのは、前借りの証文と、薄汚れた質札の束だけ。五厘銅貨一枚すら残らない、完璧な空っぽ。\
普通の人なら、ここで絶望して頭を抱えるのでしょう。でも、私は違いました。この徹底した空虚さこそが、混じりけのない文学の純粋さなのだと、自分に言い聞かせていたのです。何も持たない自分。何にもなれない自分。その惨めさを、私はどこか誇らしくさえ思っていました。

金田一君は、そんな私を救おうと必死でした。\
彼は自分の身を削るようにして、私に言葉をかけ、時には涙を流してくれました。けれど、その涙を見つめる私の心は、冷え切った石のようでした。彼の頬を伝うそのしずくさえ、私にとっては、いつか書くべき物語の、ちょうどいい肥料にしか見えなかったのです。

「ならない! どうかしなければならぬ!」

彼はそう言って、私の肩を掴みました。その手の熱さが、ひどく不快でした。\
私は、彼の青白い顔をじっと眺めました。彼は本気で私を心配している。その純粋さが、私をいらだたせました。彼の善意は、私にとってはただの「ごまかし」に過ぎません。

「つまり、あなたのような人が幸福なんです」

私は、わざとゆっくりと、彼に毒を染み込ませるように言いました。

「あなたのように、そうやって自分をごまかして、安心して生きていける人が。私には、その安心が何よりの毒なんです」

金田一君の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かりました。私の言葉が、彼の優しい心を鋭いナイフで切り裂いたのだと、はっきりと自覚しました。私は、彼が絶望する瞬間を見逃さないように、その瞳の奥を覗き込みました。\
私が彼を傷つけるたび、私の内側にいる怪物は、満足そうに喉を鳴らすのです。

やがて、家族がやってくることになりました。\
私を待っているのは、温かな再会ではありません。それは、新たな寄生先としての「責任」という名の舞台装置に過ぎませんでした。私は、彼らの人生をも食いつぶし、壊し続けていくのでしょう。

私は、自分という人間を、どんな扉にも当てはまらない、出来損ないの鍵だと思いました。\
形は鍵のようでも、どの穴に差し込んでも、ただ相手を傷つけ、中の仕組みを壊してしまうだけの、無用な鉄の塊。\
それでも私は、この壊れた鍵として生きていくしかないのです。誰かの人生を犠牲にして、その痛みを言葉に変えながら。

雨が降り続いていました。\
窓の外の暗闇を見つめながら、私は金田一君から取り上げた剃刀の、ひんやりとした感触を思い出していました。あの時、彼が私の手を止めたのは、果たして救いだったのでしょうか。\
私は、彼がいつか私を見捨て、絶望の果てに去っていく日を、どこかで楽しみに待っているような気がしてなりませんでした。


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